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作曲理論講座

21世紀を迎え20数年が過ぎた現在、大きな事件や出来事が日本のみならず地球規模で襲いかかり、非常に不安定な時代を迎えています。芸術のあり方も社会の状況によって刻々と変化しています。現代美術において、また映画・演劇やコンテンポラリーダンスなどの分野において、多くの作家・アーティストたちの表現活動が盛んに行われている一方で、この加速度化した時代にあって、既存の価値観や理念が大きく揺さぶられているかのようにも感じられます。

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GAFAと呼ばれるアメリカの一連のデジタル企業は、このわずか30年足らずで既存のルールを根本的に変えてしまいました。法制度はGAFAが築いたデジタル化社会にまるで追いついておらず、一面では、この4社(google,apple,facebook,amazon)は今や国家よりも大きな権力を備えているとも言われています。もはや日本の役所が発行する「わたしの数字券」などを持たずとも、わたしたちの生はスマホによって隅々まで管理されているというわけです。

では音楽はどうなのかというと、とりわけappleがかなり早い段階から(おそらく1980年代から)音楽のデジタル化を進めてきました。正確には、apple周辺のサードパーティがシーケンスソフトや楽譜ソフトの開発を活発に行い、結果、いまや誰もが簡単に録音し、それを手軽に編集することができるようになった。そして誰でも作曲することさえ可能になった、という言い方もあながち間違ってはいないのです。そしてもちろん音楽の受け手側も、youtubeでいくらでも音楽を見聞きし、サブスクでごく簡単に楽曲を消費する。

この事態の是非を問うことはできても解を得ることはそう簡単ではないかもしれません。解なし、とも言えるのかも(?)。ただ、作曲もした思想家アドルノは、すでに1940年代には音楽の物象化を批判し、特にアメリカの文化産業、ラジオやレコードなどのメディアを激しく非難しました。この論こそ賛否両論がありますが、もしかしたらGAFAによる支配的な産業構造を既に予見していた、という言い方もできなくはない。

この徹底した音楽のデータ化の時代にあって、巨大な、あまりに行き過ぎた利益を得ることも、一方で貧者がより貧しくなることも、信じられないような格差が生じることも、何も問題はないと涼しい顔をしてみせるネオリベラリズムをどのように批判できるのか。そう考えたとき、このアドルノの論を思い出すことは無駄ではないかもしれません。楽器はもちろん歌さえもボーカロイドに取って変わりデータとして大量生産・大量消費されるとき、そもそも生の声で歌うこと、旧来の楽器を奏でることに何かを意味を見出すことができるのでしょうか。そして作曲することの手がかりとは一体どこにあるのでしょうか。

こうしたと問いのヒントを得るために、まずはDTM(=デスクトップミュージック)を脇に置いて、その前史を考えること。非常に大雑把ですが概観すると、録音技術の発明と音楽の文化産業化。それ以前、すなわち19世紀以前の音楽ビジネスの基盤である楽譜の流通と出版。より遡ればキリスト教の布教のための、楽譜という制度そのものの発達。最古の楽譜は周知のように9,10世紀ごろのグレゴリオ聖歌ですから、少なくともおよそ1000年ほどの時間を経たのち、いまこのような状況になっているとも言えます。

加えて音楽理論の歴史を紐解くと、紀元前6Cごろの数学者/哲学者・ピタゴラスの音楽理論まで遡ることができます。ピタゴラスはオクターブや完全5度の振動数が整数比で表せることを見抜きました。その発見は後世の音楽理論はもちろん、現代の音響学の基本にもなっています。言い換えれば、数や記号によって音を分析し記述するという発想は少なくともこの頃の古代ギリシャから始まっている、ということにもなります。

学園坂スタジオの作曲講座は、ピタゴラスに端を発する音程理論に始まり、グレゴリオ聖歌の時代の教会旋法、バロック期の通奏低音や対位法、そして近代和声法からジャズ理論に至るまでの近現代の書法を概観し、主に鍵盤あるいはギターを用いながら作譜/演奏のいずれにも取り組んでいきます。ときに近代の管弦楽法やオーケストラスコアを眺めることはありますが、この講座における「作曲」とは必ずしも「作曲家」、すなわちヨーロッパ音楽の絶対的な主体としての「作曲家」を目指すわけではありません。紀元前から現代に至るまでの理論の変遷を客観的に眺めることで、西欧の作曲法をひとつの知のあり方として捉えてみる、というスタンスです。

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むろん楽譜が読めなくとも、ギターを片手に作曲することも、アップルコンピュータでオリジナル楽曲をリリースすることもいとも簡単ではあります。楽譜の読み書きに邪魔されて、却って自由に音楽活動ができなくなる例もしばしばあります。ただ、あまりに理論的な知識が乏しい場合には短期間で行き詰まってしまう、あるいは僅かなボキャブラリーの内で同じことの繰り返しに陥ってしまう、などということが容易に想像されます。また、新種のテクノロジーを使いこなしているようで、実は使いこなされているだけ、という矛盾に行き着くことも考えられます。

データ消費社会のサイクルだけに回収されないために、さらに別種のヒントを得るために、この講座ではヨーロッパ以外の文化圏の音楽を積極的に取り上げます。とりわけヨーロッパのアカデミズムが重視してこなかった、リズム語法が非常に豊かなブラックミュージック全般の分析を詳細に行うほか、日本列島に隣接した琉球文化圏の音楽、朝鮮半島のリズム語法、またインド音楽やアラブ音楽などにも触れ、それぞれがまたひとつの知の体系でもあることを確認していきます。それは多様性というようなやや安易な言葉では説明のつかない、地域にまたがる大きな壁を見出すことにもなり得ます。が、そこから目をそむけることなく耳を開いていく姿勢を実践していきたいと願います。

また、従来の作曲理論は作詞という分野を全く別物として扱ってきました。何故なのかは測りかねるのですが、教会の讃美歌がベースとなる近代和声法に既に作詞が存在せず両者が切り離されていることを考えると、やはり宗教歌/世俗歌の断絶にその理由があるのかもしれません。少なくとも現代の日本の芸術系(音楽系)大学に作詞あるいは詩作のようなカリキュラムはほぼ例外なく存在しないのです。ある文化圏では「作詞=作曲」であり「作曲=作詞」であるような音楽が多く聞かれることを考えると、音楽と文学が見事に切断されてしまっている教育制度に疑問を持たずにはいられません。この講座では必要に応じて、シンガーソングライティングについても多くの時間を割いていきます。

少し長くなりましたが、このようなコンセプトを基に、ゆっくりと着実に常に対話しながらのレッスンとなります。従来の作曲講座とはイメージが少し異なるかもしれませんが、あくまでこの時代が必然的に要請する数多くのテーマをモチーフにし、地球上の多くの他者と音楽を通して向き合うこと、過度に個人主義的な表現に陥らず、かといって決して迎合するのではない表現活動を目指していきましょう。なお、受講ご希望の方は一定のご経験がある方に限定させていただきますのでご了承ください。

 作曲理論講座

開講曜日は相談に応じます。

日中クラス10時〜18時

夜間クラス19時〜22時

①若年層向け基礎コース(1コマ120分×月2回): 月額18,000円

②プロ志望コース (1コマ120分×月2回): 月額24,000円

※①は習熟度にもよりますが、およそ2〜3年をめどにクラス卒業になります。その後も継続ご希望の場合は②に移行します。

※リモートレッスンも承ります。

講師

谷森 駿 (作曲家)

ほか

※①は習熟度にもよりますが、およそ3年をめどにクラス卒業になります。その後も継続ご希望の場合は②に移行します。

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