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宇野邦一・思想ゼミナール2/17のレポート

やや時間が経ってしまいましたが、2/17に行われた宇野邦一さんの思想ゼミナールの参加者の方からレポートをお寄せいただきました。この日取り上げられたのはアーレント。前回のフーコーから、アーレントに展開/転回していく議論でした。以下、掲載します。

ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判について、「悪の凡庸さ」を考えたことは広く知られています。それを経た彼女は、「道徳という問題」に改めてぶつかり、これを考え続けていました。その中で、道徳の基準とは「私が自分自身と語り合うこと」、「他のものを考慮する前に、私と自己自身との意見が一致すること」だと、彼女は語っています。ここでは、古代ギリシアの、「自己への配慮」という視点が参照されています。

道徳は、「他者に善をなせ」という(神の)命令に従うこと、と伝統的に考えられていました。他者に向いたこの道徳観を批判しつつ、アーレントは「自己への配慮」に立ち戻った道徳観を提示しました。しかしそうして問題になるのは、人間の複数性です。私、自己、意志、といったものは、最初から単数的に存在しているかのように思えます。しかし私が、「他者に善をなそう」とするその意志さえも、「“私”と“私の自己”との交わり、語り合い」という複数性の次元から出て来ています。「私」も、「彼女」も「彼」も、こうした複数性から成り、それらの交わりに出現するのが、道徳という問題なのです。

ドイツ出身のユダヤ人であるアーレントは、第二次大戦中、フランスやアメリカに亡命し、他国語の中を生きていました。また晩年には、アイヒマン裁判の考察を契機に、他の多くのユダヤ人から嫌悪感をぶつけられていました。本日の質疑応答ではまず、こうした彼女の生き方が、どのようにその道徳観を形成したのかが検討されました。その議論はやがて、言葉を使い、詩を書き、唄う、ということが、私たち自身に対してどんな意味を持っているのかを問う、感性的領域へ連なりました。(アーレント自身、道徳を語るとき、カント哲学の感性論を参照しています)。

私たちが言葉を話すとき、物事は必ず、単数形か複数形を取った言語内容になります。しかし例えば、何かを「美しい」と感じるとき、私たちは、単数形でも複数形でも表現し得ない感性的領域にいるのではないでしょうか。美しいという、私個人の無根拠な感覚は、赤の他人たちもその美を感じられるとしたら、本当に“個人的”なものなのでしょうか。アーレントやカントが問うていた、この感性的次元に、私たちはどう分け入って行けば良いのか。こうした問いに凝結していくものとして、道徳についての多種多様な議論が、現実的な形を得て行くように思えました。

以上です。

次回、今年度最後の講義は3/17(土)15時〜。終了後、打ち上げも予定しています!

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