1/20は宇野邦一さんの思想ゼミナールでした。今年度、第9回目となります。主なテーマとしてM.フーコーの最晩年の「パレーシア」が取り上げられました。以下、受講生の方からレポートを寄せていただきましたので、掲載します。
ミシェル・フーコーが晩年、これまでの自分の哲学を系譜づけながら再考していた問題に、「自己への配慮」というものがあります。『言葉と物』『監獄の誕生』等々、かつてフーコーの代表的著作の中では、歴史的資料についての驚きに満ちた解釈が行われていました。しかし晩年は、そんな刺激的な書き方は鳴りを潜めて、ヘレニズム期やローマ帝国期の古文書について、割と常識的な読解が行われていたようです。それら古文書への静かな読解と、フーコー自身の哲学とをつないでいるのが、「自己への配慮」というテーマです。
「自己への配慮」は、自己としてのふるまいに向けられます。このふるまいは、“私自身”が行うものではなく、私というその主体的な在り方を、そもそも決定づけていく操作性のことです。最晩年のフーコーは端的に、「人という何らかのものを、私という主体へと、変形させる方法」と言い、結局自分は「この方法」をこれまでずっと問題として考えてきたのだ、とまで語っています。私たちを私たち自身の手によって、一人一人の主体とさせている方法は何か。権力や政治が現実的作用としてどう働くのかを考えてきたフーコーが、このようなふるまいへの問いを晩年に表明したのは、自然なことでしょう。
しかしこうした思索の中でフーコーが、自分の哲学の本質を説明するものとして、古代の文献から選び出した用語は、どこか鋭利な感覚を秘めています。それは、ギリシア語の“パレーシア”、「真実を言う」と訳される語です。この語の解釈と共に、晩年の彼は、パレーシア=哲学の本質を、政治的集合体(ポリス)の一員がなすべき美徳ではなく、政治に対する外部を存立させる行為として述べるようになります。ふるまいの仕方を司る政治を真実として、それに参与するのではなく、そうした政治性の外側へ向けて、ふるまいの力動性を言うこと。政治性がどのようにして、私たちという主体(ふるまい)を決定させているのかを言うこと。このように政治の外へ出ようとする哲学が、それ故に持つ政治性として、「自己への配慮」やふるまいという現実的領域が問題化してきた、と言えるのではないでしょうか。
また質疑応答を介して、宇宙的合一を瞑想するようなストア派の思考傾向や、デカルト的コギト、精神分析なども触れられつつ、あくまで「ふるまい」に焦点を置くフーコー哲学の輪郭が明瞭化されたことも、それぞれの理解の助けとなりました。
レポートは以上です。次回の思想ゼミナールは2/17です。詳細は学園坂出版局のリンクをご覧ください。初めての方の受講も可能ですので、お気軽にお申し込みください。
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