2021年5月、コロナ騒ぎも1年と数ヶ月となりました。予定を立てても×、見通し立てても×、何をやっても振り回されてばかりのコロナ禍ですが、それならば仕方ない、レコーディング作業に専念しよう!ということでスタジオの空き時間を活用して、曲作りと録音に精を出した1年でもありました。録音作業でさえコロナの影響で遅々としたものでしたが、総勢11人のミュージシャンやスタッフさんなどの協力を得て、なんとかかんとか今月末、発売にこぎつけることができました。
小笠原もずく”knock”
ミックスやマスタリングは外注でしたが、全録音を学園坂スタジオで行いました。そういう意味ではスタジオ初のフルアルバムとも言えます。アーティストは小笠原もずく。気鋭のヴォーカリスト・シンガーソングライターです。インディーズ発売にしてはだいぶ豪華な作りをしていますが、いまの時代、こういうサウンドはもはやメジャーでは作れなくなったのかもしれません。
肥大化した資本主義が、個々のアーティストや作家の、本来もつべき想像力やクリエーションする力を奪いとってきました。渦中のオリンピックに身を売ったミュージシャンや演出家・映画作家たちのように、体制におもねり、コマーシャリズムに邁進するアーティストたちが後を絶ちません。一時期のJ-POPは、とにかく「ありがとう」三昧で、「絆」大好きで、メッセージ性など皆無でした。私感ですが、おおよそ90年代からの30年間で、音楽業界は没落の一途で、新しいものが生まれてくる可能性はほぼゼロになってしまったような気さえするのです。
それがどういう理由によるのか、言い出したら1冊の本になってしまうのでしょうけれど、複合的な要因が考えられます。そのひとつは新自由主義体制下における極端な資本の蓄積でしょう。激しすぎる貧富の差が、様々な分断を生み、けっか長いものに巻かれろ的な発想がごく自然なものになってしまった。疑う力はいつの間にか麻痺し、迎合が迎合でなくなった。もはや新聞などのメディアでさえ、疑う力・闘う力を失ってしまいました。
政府や東京都のオリンピック中心主義について、戦争に突き進む昭和10年代との酷似を指摘する声を見かけますが、確かにその通りなのです。すでにスポンサーになっている新聞社はオリンピック批判を正面からできない。テレビは首根っこを政府に押さえられているので、庶民の声を掬うことができない。NHKキャスターの首が何度もすげ替えられているのは周知の事実です。報道や言論の自由はとうに奪われており、当然ながら表現の自由も脅かされているのです。
思えばある時期からのJ-POPは表現することを完全に止めたのではなかったか。言いたいことなどどうでもよく、どこまでも心地よくて、耳障りな言葉やノイズが完璧に消去された、まるで楽園のようなサウンド。きれいごとだけが散りばめられた歌詞は、ものを考えることを麻痺させ、目先の利益、目先の快感を優先させる。いわゆるutilitarianism =功利主義に陥ったのでしょう。役に立つもの、金儲けになるもの、そんなutlityだけが重視され、実験的であったり、耳障りで不快だったりするようなサウンドは、いつの間にか失われてしまいました。今日、日本の政治や経済がこのようであることに加担した、一部のポップスターや音楽産業の罪は決して小さくないはずなのです。
さてこんなことを書き連ねていると終わりが見えないのでこのくらいにしておき。今回のニューアルバムも、もちろんポップスです。ただしスポンサーはおらず、アーティスト自身がやりたいようにやり、作りたいように作り、歌いたいように歌っています。そのような方法論はメジャーではもはや不可能でしょう。必ずしも具体的な主義・主張が歌われているわけではなく、ラブソングやダンサブルな楽曲なども収録されています。が、ジャンルがバラバラ過ぎるので、やはりメジャーでは扱えない内容になっています。
楽曲の紹介や参加ミュージシャンたちのことに関しては稿を改めたいと思います。発売まであと10日ほど(予定)。いまは台湾の工場からアルバムが到着するのを待つばかりの日々。アルバムの詳細については学園坂出版局のこちらのページをご覧ください。
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