数多くの著作やG.ドゥルーズらの哲学、J.ジュネ、A.アルトーなどの多岐に渡る翻訳で著名な宇野邦一さんの思想ゼミナール、今年度も開始しました。今年のテーマは「国家の外の思考」。21世紀になってますます「国家」のあり方が問われる時代に、非常に刺激的・ラディカルなテーマです。
国家は暴力とともに始まった、とするニーチェの『道徳の系譜』や、ホッブスやルソーなどに触れながら、この日のメインテーマはピエール・クラストル『国家に抗する社会』でした。知られざる名著『国家に抗する社会』は、かのドゥルーズ=ガタリが取り上げたことでも知られています。「非強制的政治権力から強制的政治権力への移行はなぜ生じるのか」という問いかけ方が今もなお鮮烈に感じられます。
この日、宇野さんが言及された興味深い箇所を一部抜き出しておきます。
・・・・・歌い手以外の一体誰が狩人の歌に耳を傾け、メッセージを発する者以外の一体誰にそれは向けられているというのか。狩人は、自ら歌の対象でありかつ主体としてのその叙情的な詠唱をひとり彼自身に向けて捧げているのだ・・・・・
グアヤキ・インディアンの狩人の歌について、クラストルは非常に奇妙な分析をしています。「歌という形での言語活動が、男にとっての存在の真のありかとして示される時、それは既に、交換の原型(アルケティヴ)であることをやめている」。「発せられた言葉は、交換されたメッセージであると同時に、あらゆるメッセージの否定でもありえ、記号としても、また記号の反対物としても声に出されるのだ」。
歌がメッセージでありメッセージでない、というのはどういうことか。ここで詳細な説明は難しいのですが、私見によれば、例えば20世紀初頭のアメリカに聞かれたデルタ・ブルースのような音楽は、まさにそのようなものだったのかもしれません。ひとり街頭に立って、ギター片手にぶつぶつとつぶやかれるメロディ。それは皮肉だったり、説教だったり、ほとんどどうでもよいことであったりしたそうですが、そもそも誰も聞かないような独り言だったのかもしれません。
実は何の価値もない、交換に値しない言葉があったとして、そのような言葉が別様の価値や意味を帯びてしまうことがあります。デマのような言説もそうかもしれません。誰も信じないはずが、いつの間にか真理として共有されてしまうような言説のあり方は、非強制的政治権力から強制的政治権力への移行とパラレルなのかもしれない、そんな風にも思えます。
クラストルについての話は、次回も続くとのことです。来月の思想ゼミナールは6月17日(土)15時〜、学園坂スタジオにて。詳細はこちらをご覧ください。
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