学園坂スタジオでは2017年より『思想ゼミナール』を開講、講師に宇野邦一さんをお迎えし、哲学・思想から文学・政治まで様々なテーマの講義・質疑応答が繰り広げられてきました。そしてこの春、講義録+αのような形で1冊の本が誕生。『政治的省察−政治の根底にあるもの』です(この書名のリンクから目次をご覧ください、青土社さんのページが開きます)。「著者がこれまで対峙してこなかった」政治というテーマを真正面から扱った本です。
宇野邦一さんといえばS. ベケットやA. アルトーなどの翻訳から、なんといってもG.ドゥルーズの翻訳者として、仏文界隈で知らない人はいない、というくらいの方です。また最近では『アメリカ、ヘテロトピア:自然法と公共性』 『吉本隆明−煉獄の作法』『土方巽−衰弱体の思想』などの評論集が記憶に新しく、常に文学〜哲学〜芸術を架橋しながら、必ずしも仏語にこだわらず、むしろその外へ向かうベクトル、ときに言語の外にさえ指向性を定めるようなベクトルを同時にもつ、類まれな思想家といってもいいでしょう。
そんな宇野さんが政治について書くことの意義は非常に大きく、この新刊は「意外だった」「新鮮だった」との声も聞こえてきます。ドゥルーズよりもむしろフーコーに論を寄せながら、並行してアーレントを論じていく仕方は確かに新鮮です。コアな読者なら『アメリカ、ヘテロトピア』で触れられたアーレント論を想い起こすでしょうし、「これまで対峙してこなかった」という言い方は必ずしも当たらないのかもしれません。とはいえ、読者にとっても著者にとっても画期的な本であることに間違いはないでしょう。
さてこの新刊の出版を記念して、学園坂スタジオでは連続対談を企画しました。本日、フライヤーの最終稿、チェックが無事完了したので、ここにリリースいたします。
キャプションの入力
イベントはなんと3日間。その1日目は『公共性』『不平等を考える』などで知られる政治理論の大御所・齋藤純一さんをゲストに、また進行役に李静和さんをお招きします。ふだん何気なく使われる「公共」という語が実は非常に政治的であり、権力のさまざまなメカニズムが働いていることは意外と意識されません。アーレントやフーコーを参照しながら、公共性とは何か、自由とは何か、そのような根本的な問いかけと議論が展開されることとなるでしょう。
2日目は『私的所有論』『不如意の身体』の著者、立岩真也さんがゲスト。おそらくほとんど接点のないお二人なのですが、異なった視点からの国家論・政治論がもしやスリリングな展開になるかもしれません。「所有すること」をラディカルに問い直し、徹底して身体のミクロな政治学を洗い直す立岩さんが、この新刊にどのように応答されるのかが楽しみです。
最終回は、いわゆる学者でも研究者でもない、音楽家の高橋悠治さん。今も昔も時代の先端に立って、現代音楽界をしょって立つピアニスト・作曲家。おそらく、そのような名称がなかった頃にすでに「反グローバリズム」的な活動をしていた水牛楽団のリーダーであり、カフカを題材にしたオペラ『可不可』を上演、クセナキスの超絶なピアノ演奏もする、まさにたたかう音楽家です。砂漠と化したかのようにみえる日本の政治、そして芸術。このお二人からみえる状況とはどのようなものなのか。じっと聞き入るべき対話となるでしょう。
最終回もまた、お二人と旧知の間柄でもある李静和さんにご登壇いただきます。李静和さんは『つぶやきの政治思想〜求められるまなざし・かなしみへの、そして秘められたものへの』の著者であり、やはり政治学がご専門。とはいえ、そのテクストはほぼ詩でもあり、濃密な思想の表れでもあるという、特異な文体の持ち主。今回のトークゲストの皆さんや宇野さんともまた異なる視点からのアプローチが大いに期待されるところです。
Komentáre